2024年08月02日 掲載
中川 尚大(なかがわ たかと)さん 【ドル君】
職業:サーファー、サーフショップ経営者、シェアハウス経営者
サーフショップ「スマイルサーフ宮崎」にて(宮崎市赤江)
1996年6月29日生まれ。静岡県静岡市出身。28歳(2024年7月時点)
小学生4年生の頃からサーフィンと出会う。
静岡県立静岡東高等学校を卒業後、サーフィンと学業を両立させることができる環境を求めて宮崎大学に入学。
大学時代は、平日も休日も関係なく、毎日のように早朝からサーフィンに励む。
2019年9月に台風の影響で大波が押し寄せる日南市内の海岸で、宮崎市木崎浜で開催されたISA(世界サーフイン選手権)に参加していたサーフィンの神様とも称されるケリースレーター選手と2人っきりのサーフィンをした動画は60万回以上の再生回数となり、国内外から注目される存在となる。
2021年には、宮崎市内の海岸でカレント(潮の流れ)に流されて溺れている親子を救出。
2022年には、5社におよぶスポンサーからの支援を受けて、ビッグウェーブで世界的に有名なポルトガルの「ナザレ(Nazare)」に行き、10mを超える大波に挑戦。
2023年には、2年連続で「ナザレ(Nazare)」に挑戦し、15mを超える波に乗った。
さらに同年12月には、カリフォルニア州の「マーヴェリクス(Mavericks)」の大波に初挑戦。
地元のSNSなどでライディングのショットが掲載される。
座右の銘: 我が人生、我のみぞ知る(坂本龍馬)
教員免許:第1種中学校英語教員免許状
(主な経歴)
2015年 静岡県立静岡東高等学校卒業
2015年 宮崎大学教育文化学部入学
2021年 宮崎大学教育文化学部卒業
2022年 宮崎市内で会社員として勤務
2022年 フリーランス(ユーチューバー)
2023年 サーフショップ「スマイルサーフ宮崎」をオープン
2024年 サーフショップに併設するシェアハウスをオープン (現在に至る)
(主な資格)
中学校教諭第1種免許状(英語)
サーフィン検定1級
ジェットスキー運転免許
サーフィンとの出会いは小学校4年生の時に訪れました。偶然隣の席に座っていた友人がサーファーで、その友人に誘われて始めたのがきっかけです。
初めてサーフィンをしたのは、静岡県牧之原市内の静波ビーチ。サーフィンというのはとても難しいスポーツですので、もちろん最初からうまく乗ることはできませんでしたが、ボードの上に寝そべったまま波の力を受けて滑って行ったあの時の感触は今も忘れません。
中学生になってからは、私の生活はサーフィンが中心となっていきました。しかし、母子家庭で、3人のことどもを養っていくために、母親は休みなく必死で働いてくれていたので平日にサーフィンに行くことはできません。そのため、週末になると、大人のサーファーの方に一緒に連れて行ってもらい、時間が許す限りサーフィンをしていました。車のヘッドライトを海側に照らしてもらいサーフィンしていたこともあるくらいで、朝から日が沈むまでひたすらサーフィンをしていました。
中学2年生の時、サーフィンで有名なインドネシアのバリ島に行き、ワールドクラスの波を体験するとともに、むちゃくちゃうまいサーファーがゴロゴロいて、とても刺激を受けたことを覚えています。また、高校2年の時にアメリカカリフォルニアにも行きました。この時期に、海外に出してもらって、異文化を体験できたことで、もっと外国の人たちと話してみたいと思うようになり、英語にも興味を持ち始めました。
もちろん、サーフィンだけやって、勉強をしなかったわけではありません。私は母子家庭で育ちましたが、母は勉強に関しては非常に厳しかったんです。僕には兄と姉がいますが、どちらも学業成績が優秀で、兄は医師になり、姉は歯科医師として働いているんです。そして、3人目の私はサーファー。ははは。笑
兄と姉が大学に行ったもんだから、流れに乗って僕も大学進学に向けて勉強をしていました。しかし、兄のように医師になりたいわけでもないし、姉のように歯科医師になりたいわけでもなく、僕は単純に波のある生活をしたかったんです。そこで、サーフィンをする環境が一番良い大学はないか色々と調べ他結果、辿り着いた答えは宮崎大学でした。
実は、中学生の時に、日向市で開催された全日本選手権に出場した際に、宮崎大学にも来ていて、サーフィンのメッカである木崎浜のすぐ近くにあることは調査済みでした。
そして、高校3年の時に、母親と宮崎大学オープンキャンパスにも参加しました。母親も、「サーフィンをお腹一杯したいだけだ」ということくらいわかっていましたが、「試験に合格して、きちんと卒業するのであれば」と、快く許してくれました。兄も姉もきちんと勉強して、医学部と歯学部に進学してくれていたので、3人目は好きなようにさせようという心のゆとりもあったんでしょうね。今も好きなように生きて、好きなことに挑戦している僕を後押ししてくれる母親には感謝しかありません。
それからは、志望大学が明確に宮崎大学と決まったので、きちんと勉強もしながら、週末にはサーフィンの腕を磨こうと海に通い続けました。また、大学に入学したら、いつでも海に行けるようにと、高校3年生の時に車の運転免許も取得しました。
そして、幸いにも試験をパスして宮崎大学教育文化学部(現在の教育学部)への入学がきまりました。ようやく、日本一恵まれたサーフィン環境にある宮崎大学への第一歩を歩むことになりました。
△中央手前が宮崎大学木花キャンパス、奥に見える海がサーフィンのメッカ木崎浜
実家から宮崎大学に引っ越すときは、母親が乗っていた軽自動車(ワゴンR)を譲り受け、それに乗ってから宮崎まで陸路を一人で来ました。高校卒業して、いきなり車で1000kmを超える道のりを車で移動する新入生なんて滅多にいないでしょうね。笑
しかし、重い荷物を載せての長距離移動は、ワゴンRにとっては負担が大きかったようで、途中でオーバーヒートしながら、無理して宮崎まで来たこともあり、再起不能となってしまいました。入学早々に車に乗って、サーフィンに行くという描いた理想は実現せず、車を買うお金もないので1年間は自転車生活となりました。
でも、僕が住んでいたアパートからは、自転車でも10分程度でサーフィンのメッカ木崎浜に行くことができるんです。実際に、自転車で海に通うサーファーは多く、近所の小中学生達も多数自転車でサーフィンに通っていました。平日は、早朝からサーフィンをした後に、大学に行きます。講義が終わればサーフィンに行くこともありますし、アルバイトに行くこともあります。毎日そのような生活をしながら、2年生になった頃には念願の車を購入することができて行動範囲も広がりました。入学して3年間は、きちんと授業も受けて勉強もしましたし、サーフィンもアルバイトも全て全力で駆け抜けていたので、本当に充実していました。
しかし、大学4年を前に、卒業論文を書き始める時期が来たのですが、自分はこのまま大学を卒業して一体どこに向かうのか、自分でもわからなくなりました。そして「自分自身の心に、自分が何をしたいのか聞いてみよう」と。
△木崎浜で行われた世界サーフィン選手権(2019 World Surfing Games)
△ケリースレーターさんと日南市の
海岸でサーフィンをしたときの写真
まずは、香港、中国、ベトナムとヒッチハイクの旅をしてみました。初めて見る光景も多く楽しいこともありましたが、詐欺にあったり、拉致されてお金を取られたりと、良くも悪くも刺激的な2ヶ月間を送りました。笑
その後、日本に一時帰国して、次はアメリカ合衆国のカリフォルニアでサーフィンをすべく、知人を頼りに渡米しました。これが2019年です。そこで、世界三大ビッグウェーブの場所として上げられるマーヴェリクス(Mavericks)という場所があることを知り、そこで長きにわたり大波に挑戦し続ける唯一の日本人である南 秀史郎(ミナミヒデシロウ)さんのことを聞き、いつか自分もそんなサーファーになりたいと思うようになりました。「大波に挑む唯一の日本人」という響きがいいですよね。この頃から、世界的な大波に挑戦するという方向性が決まってきたように思えます。
カリフォルニアに3ヶ月滞在した後は、日本に一時帰国。日本にいる間に、宮崎大学から車で5分の場所にある木崎浜で世界サーフィン選手権(2019 World Surfing Games)が開催され、サーフィンの神様と称されるケリー・スレーター選手や、後に東京オリンピックで金メダルを獲得したイタロ・フェレイラ選手も参加。大会終了後、台風の影響で高波が押し寄せていた日南市内の海岸で、ケリー・スレーター選手と2人っきりサーフィンをした動画は60万回以上の再生回数となり、修行を積むための遠征資金の足しになりました。笑
2019年12月には、サーフィンの聖地で、大波が押し寄せるハワイ島のノースショアに1ヶ月滞在。毎日のように押し寄せるパワフルな波にのまれながら、修行を積むことができました。そして、日本に帰国しようとしたとき、ちょうどハワイの空港で重松康太さんに偶然にも会いました。重松さんと言えば、世界一の大波が立つ、ポルトガルのナザレでサーフィンをした知る人ぞ知るビッグウェーバーです。そこで重松さんと知り合いになることができて「ナザレに行って大波に乗ることは私の運命だ」と思うようになりました。
2020年1月頃、ハワイから帰国した頃、中国で新型コロナウイルスが発生し、徐々に世界に広がっていきいました。そして、3月には日本国内の学校が休校になり、「ステイホーム」が叫ばれる世の中になり、サーフィンさえもできない状況になってしまいました。
僕からサーフィンを取ったら何も残りません(笑)。しかも、アルバイトの収入も激減し、You-tubeの撮影もできません。最初は本当にどうしようかって思いました。しかし、僕にはやり残したことがありました。「卒業論文を書く」と言うことです。笑
卒業論文のタイトルは「Never Let Me Goにおける凡庸なる悪」。こうなったら徹底的にプラス思考。おかげで卒業論文制作に没頭することができて2021年3月に卒業することができました。
話しは変わりますが、2020年の夏、サーフィンをしている時に、宮崎市内の海岸でカレント(潮の流れ)に流されている親子を見つけました。僕は、すぐに流されていることに気付いたので2人の命を救うことができました。他にもサーフボードと足を繋ぐリーシュコードが切れて、はるか沖に流されたサーファーを救助したこともあります。夏休みには、青島海水浴場の渚の交番でライフセイバーとしてアルバイトをしたり、ライフセービングにかかる色んな講習を受けていて良かったと思います。
それより、僕も大波に挑む以上は、色んな人に助けられることになります。持ちつ持たれつの関係ですし、少しでも良いことをして徳を積めて良かったです。皆さん、遊泳禁止エリアでは絶対に海水浴はしてはいけません。木崎浜は遊泳禁止エリアです。サーファーが沢山いるから大丈夫だとは決して思わないでください。
さて、2021年に、ポルトガルのビッグウェーブで世界的に有名な「ナザレ」に行き、15mを超える大波に挑戦しようと覚悟を決めました。ナザレの大波に耐えるには、強靭な肉体、万全な装備と資金力、全てに適応する精神力、そして泳力と肺活量が必要になります。覚悟を決めてからは、宮崎を離れ、ナザレ経験者の重松氏の元で修行を積むことにしました。
波にのまれた場合に一番大切なことはパニックにならないことです。海中でパニックにならないために、トレーニングはとにかく限界まで追い込みます。息を吐きながら無呼吸で繰り返す25mクロール、50m潜水平泳ぎ、おもりを持って水中を歩き続ける練習などなど。最初は、息継ぎ無しでは歩いて25mも進むことができなかったのですが、トレーニングを繰り返し、息継ぎ無しで50mを歩いて進むことができるようになりました。これは時間にすると約2分間に相当します。他にも様々な筋力強化トレーニングで自分を追い込み続けることで、大波に挑戦することができる心と身体を作っていきました。
一方、費用面では、ナザレの大波に挑戦するには、往復60万円かかる航空チケットを始め、ライフジャケット、現地で雇うレスキューチーム代など、約300万円の資金が必要になります。命をかけてポーターや現地ガイドを雇って、エベレストなどの世界屈指の山に挑戦することと非常に似ています。高さは15mを超えるような大きな波の場合は、ジェットスキーに引っ張ってもらってからテイクオフしていくトーインをする必要があります。もちろん、ジェットスキーも命がけの仕事です。挑戦するサーファーが波にのまれた場合には、すぐさま命がけで救出に向かわなければなりません。 最終的には、クラウドファンディングで200万円以上の支援を受け、ナザレの波に挑戦することができました。支援いただいた方にはこの場を借りて改めて御礼申し上げます。
2023年12月、ポルトガルに到着し、大波が立つその日を待ちます。ポルトガル到着から約10日後、ついに15mを超える大波になるコンディションが整い、翌日に大波に挑戦することとなりました。
もちろん、挑戦するまでには、一緒にチームを組んでくれる人脈作りから始めなければなりません。実際に現地のサーファーに認めてもらうためには、自分1人の力でパドルのみで波に乗る必要があります。自分1人ということはもちろん死のリスクは高い。だが現地の人に認めてもらわなくては大波に挑戦できない。決死の覚悟での練習を経て、ようやくポルトガルのナザレ(Nazare)に溶け込むことができました。
そして、ポルトガルでの練習などあっという間に終わり、その日は来てしまいました。レスキューつまりは命を助ける練習から、非常事態の練習まで。全てはその日のために。
--- あとはみんなの想いを胸に自分が波に乗るのみ ---
準備は万全。
心も全て整った。
波の威力と恐ろしさは重々承知している。
何万トンもの水が自分自身の体にのしかかり、骨折はおろか命を落とす方もでるのがナザレ。それでも、全世界から命知らずの猛者達が集まる。今回挑戦する大波はもちろん、私がこれまで挑戦した波よりも大きく、それに挑戦することの緊張感で吐き気が止まらない。
夜には町中に大波が割れる音が響き渡り、世界中からやってきたビッグウェーバーが次の日のために興奮している。町全体が来たるThe Day(年に数回しかやってこないパーフェクトな大波が立つ日)に向けて盛り上がる。
朝起きて海に向かうと、まさに「海のエベレスト」
波のサイズは50Feet Over(15m越え)
そこには、この世のものとは思えない光景。
波を見ただけで全身の細胞が恐怖を感じるほどの海の威力。
海が見せる恐ろしい姿を目の当たりにし、相棒のブラジル人(Vinicias dos Santos)と、お互いが生きて戻ることを誓って抱きしめ合い海に向かった。
△大波に乗る前に相棒のブラジル人(Vinicias dos Santos)と撮影
--- 事態は急変 ---
海に入ると尚更デカい。ただデカいだけではなく、漆黒の海が怒りを表していた。
海から波を見上げたときに、大自然の偉大さを痛感する。
8~9階ほどはあろう大きな海の山が押し寄せてくるからだ。
体全体に緊張が走る。
「一本だけでいいから乗ろう」「日本人の歴史を作ろう」ブラジルの相棒が英語で囁く。
彼自身この大波に日本人を乗せるのは初めての経験。
お互い2年間培ったいろいろな思い出がある。
お互いに死ぬわけにはいかない。
覚悟を決めて大波に挑むことに。
しかし突如事態は急変
海の上で準備を進めている時に、この日1番の大波が・・・。
僕とメインドライバー2人を飲み込み、ジェットスキーは打ち上がり大破。
メインドライバーは怪我をして病院に搬送。
さらに自分のサーフボードは波に揉まれ行方不明・・・
これはたった一瞬の話だ。
たった1秒。
たった一つの判断
それだけで地獄の世界へ。
これがBig wave
全員が命懸け。
いつ何が起こるか分からない。
--- 日本人サーファーの歴史を作ろう!Vamos! ---
ここでViniの言葉が蘇る。
「1本だけでもいいから乗ろう。日本人サーファーの歴史を作ろう」
恐怖で震える体を抑え、覚悟を決める。
そこからの記憶は全て飛び飛び。
波に乗る景色は鮮明に、かつダイレクトに脳に焼き付く。
この世界で体感することのできない興奮が身体中を迸る。
海そのものを傾けたような巨大な斜面が目の前に広がる。
一言、僕は言った
「Vamos!」(日本語で「行くぞ!」)
この言葉を皮切りにチーム全体にやる気がまた戻る。
メインドライバーは救急搬送でいないため。
昨年知り合ったドライバーに命丸ごと託す。
普段はありえない速度で波に挑む。
60kmは優に超えているであろう速度。
波と対峙して覚悟を決めて波に乗る。
吹き飛ばされそうな速度で巨大な斜面を滑走していく。
転べば健康で帰れる保証はない。
ただただ生きるために波に乗る。
普通のサーフィンとの大きな違いは、波がデカすぎて全体を把握できないことだ。
波に乗って斜面を滑走している時、突如上から何トンもの水が覆いかぶさってくる。その巨大な白波をも抜けて安全な地帯へ逃げる。
△ついに大波に乗った中川さん
そこで自分が波に乗ったことに気づく。
" I made it!!! "
とっさに仲間に伝える。
チーム全体に喜びと緊張の緩和が訪れる。
自分1人では何も為し得ていない。
応援してくれるファンのみんな
資金的サポートをしてくれるスポンサー企業の皆様
そして現地でのチームのみんな
心の底から生きている喜びを感じる。
全身が興奮で震える。
そして感謝をみんなに
「ありがとう」
計り知れない強大な自然を前に、自分1人に非力さを痛感し
さらに仲間のありがたさを体で覚える。
今でも、あの大波に乗った景色を忘れない。
△命をかけた大波に挑戦した仲間達と共に
ナザレの大波に挑戦して帰国後、2023年にサーフショップ「スマイルサーフ宮崎」をオープンしました。これは、私自身がサーフィンと共に成長し、サーフィンから沢山のことを学んだことから、少しでも多くの人にその魅力を伝えたいという想いからです。また、2024年 サーフショップに併設するシェアハウスをオープンしました。
2024年は、「世界最大の波」これを目指して修行中です。
今年(2024年)は、中日新聞様や東京新聞様などにも取り上げていただくなど、沢山の皆様方のご支援のおかげで、活動の幅を広げることができています。特に、中日新聞様には、2024年5月19日の朝刊で、一面記事として大きく取り上げていただきました。
さらに嬉しいことに、世界を巡る狂気の旅人をスタジオに招き、体験を語る紀行バラエティ番組である「クレイジージャーニー」(TBS放送)の密着取材を受ける予定となりました。
そしていつかは、100フィート(約30m)の大波に乗って、伝説のサーファーになりたいと思っていて、夢を実現させるための努力を惜しまず、チャレンジし続けます。
△自身が経営するサーフショップにて撮影
【ドル君関連サイト】
▼サーフショップ(スマイルサーフ宮崎)
https://www.smilesurf-miyazaki.com/
▼Youtube
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▼インスタグラム
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世の中には多くの命知らずの挑戦者が存在する。エベレストのような世界最高峰の山頂を目指す登山、断崖絶壁でのロッククライミング、F1、バイクレース、スノーボード・・・・。様々なスポーツの超上級レベルでは一歩間違えば命を落とす危険が伴う。そして、スポーツに限らず様々な分野でパイオニアとなる第一人者がいる。
通常のサーフボード(ショートボード)であれば、重さは約3kg程度であるが、中川さんがナザレで使用したサーフボードは10kgを超える。大波の場合は、次から次に大きな凸凹が出現し、そのくらいの重さがなければ吹き飛ばされてしまうのだ。ナザレで波に飲まれたときに真っ二つに折れたボードを持ったが、あまりの重さに驚いた。
中川さんは、日本におけるビッグウェーブ界の新たな歴史の扉を開こうとしているパイオニアだと言えよう。「出る杭は打たれる」という言葉があるように、命をかけた大波への挑戦には批判を受けることもしばしばあるだろう。だが、中川さんは自分自身の命を簡単に捨てるなんて全く思っていない。大波に挑戦するときのチームメンバーも命を落とそうなんて誰も思っていない。ただ、自分に正直に、そして自分が幼い頃から愛して止まないサーフィンの世界で、誰もなし得なかったことを成し遂げようと、確固たる信念を持って、日々のトレーニングに励んでいる。
その過酷さは想像を遙かにこえるもので、中川さんの熱い想いとその努力する姿に感銘を受ける人も多く、支援の輪も広がっていて、2024年は更なる大波に挑戦するための準備を進めているという。
中川さんが好きだという坂本龍馬の言葉「我が人生、我のみぞ知る」。挑戦し続ける者だけに与えられる様々な苦悩があるからこそ、中川さんはこの言葉に感銘を受けるのであろう。これからも挑戦し続ける中川さんの安全を祈願するとともに、更なる活躍を期待したい。(後田剛史郎)
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